川の流れに/5止 ◇「健康とやる気さえあれば」

簗の上で=森田剛史写す

 北群馬信用金庫では、55歳を迎える前の秋に一度だけ、早期退職制度を利用できる。

 黒岩基次さんは昨秋、これに手を挙げた。驚いたのは周囲だった。「生活はどうする」「早まるな」。55歳以降は微減するとはいえ、年収1000万円は確保できる。「役員待遇にするから」とも、慰留された。

 「観光簗(やな)を経営する」と黒岩さんが打ち明けると、反対の声はもっと強くなった。「畑違いじゃないか」「博打(ばくち)だ」。しかし、黒岩さんは揺るがなかった。「50代は、まだ若い。健康とやる気さえあれば、何でもできる」

 かつて簗で働いていた料理人たちを訪ね、戻ってもらうよう頼んだ。親族にも声を掛け人手を確保、今年7月1日のオープンにこぎつけた。

 再開を待ちわびていたかつての常連客が駆けつけた。「昔通りの味だね」と喜ぶ客の顔に、「こんなにうれしいとは」と感激した。「金融の仕事と違い、どんなに客の立場になって考えても、考え過ぎということはない」。そうも感じた。

 退職前に比べ体重は11キロ落ち、血糖値やコレステロール値もすべて正常に戻った。「どんなに忙しくても、目の前を利根川が悠然と流れている。自然の力はすごい。イライラもすっと消えてしまう」。来店したかつての同僚たちは「日に焼けて別人だね」と驚く。

 不動産業を営む長男の泰さんや会社員の長女美絵さん(27)も、勤務を終えると手伝いに来た。土日は家族総出、親類も加わって店を切り盛りした。「きょうも忙しかったね」。家族で話題を共有する夕食の味は格別だった。

 簗の営業は9月末で終わった。「最初の年は損が出なければ良い」と思っていたが、売り上げは信金時代の年収と変わらなかった。「夢中で、息つく暇もなかった夏。それでも生き生きした夫の姿を見られたのが、うれしかった」。妻咲江さんの表情も緩んだ。

 「経営が軌道に乗れば、夫婦で新婚旅行以来の旅に、のんびりと出掛けてみようか」。黒岩さんは今、考えている。【藤田祐子】


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(毎日新聞2003年10月19日朝刊から)